2026年10月15日

阿蘇さとう農園、草原を守るため
何もないところからはじめた羊の放牧

東日本大震災をきっかけに地元・阿蘇へ戻り、祖母の代から続く土地で農業を始めた佐藤智香氏。伝統野菜・高菜を加工したマスタードに続き、2020年からは九州ではまだ珍しい羊の飼育・精肉加工にも挑戦してきました。その根底にあるのは、使われなくなっていく阿蘇の草原を、次の世代にどう残すかという問い。答えの見えない挑戦に、国内外の知見を学びながら向き合う佐藤さんに、これまでの歩みとこれからの展望を伺いました。

阿蘇さとう農園 代表 佐藤 智香様

阿蘇の草原を維持するために。羊を選んだ理由

─ まず、御社の事業概要について教えてください。

当社は熊本の阿蘇で農業をベースに、生産したものを加工して販売しています。加工食品の売上が大きいので、実態としては農業よりも製造業に近いかもしれません。

柱は大きく二つあって、一つは高菜を使ったマスタードです。もともとこの土地の伝統野菜だった高菜を、漬物ではなく洋食で使えるものにしようとマスタードに加工しました。もう一つが羊の畜産で、2020年に導入してから数を増やしてきました。マスタードの売上に、羊が追いついてきた感覚があります。希望としては、これから羊の方が上がっていくと良いのかなと思っています。

人気商品のマスタード。伝統野菜の阿蘇高菜を守るために開発

─ 羊産業は珍しいと思うのですが、どうして始められたのでしょう?

阿蘇で農業というと、畑と田んぼだけでなく、草原がとても重要な存在です。阿蘇は世界農業遺産に認定されているんですが、その理由の一つが、草原を活かした農業が長く続けられてきたということなんです。阿蘇の草原は、牧草地ではありません。北海道などで見られる草原は家畜の飼料となる牧草の種をまいて作った牧草地なんですが、阿蘇の草原は、人の手で植えたものではなく、自然のままの植生が残っている場所なんです。草原は放っておくと低木が生えて、やがて森になります。だから毎年野焼きをしています。草原の維持に人の手は欠かせないんです。

昔は草原の草を田んぼに入れて肥料にしたり、牛や馬の餌にしたり、草原と農業は密接に結びついていました。でも今は肥料も飼料も、草原の草を使うのではなく購入するようになりました。草原の活用がどんどん難しくなっていて、それに伴うように草原の継承も難しくなっています。草原をどう使っていくか考えたときに、行き着いたのが羊でした。

草原を維持するには、草を食べる家畜を放牧する必要があるんです。牛も放牧されているんですけど、放牧で育てるとさしが入るような肉質になりにくいため、等級が下がって、価格も下がってしまうんです。だから、放牧されている牛はほとんどが繁殖用です。一方、羊は牛のような肉の規格が決まっていないうえ、輸入がほとんどですから、国産の羊はビジネスとしても可能性があるんじゃないかと思ったんです。

飼育も、加工も、販路も。何もないところからのスタート

─ 羊肉の販売は、どのように展開してこられたんですか。

飼育技術から扱ってくれる精肉店まで、何もないところからのスタートでした。というのも、畜産としての羊が九州にはいなかったので、対応できる獣医さんもなかなか見つからないような環境で。そんな中で育て上げて精肉店に持ち込んだんですが、断られてしまいました。小さくて割に合わないし、羊を扱うとなると、ほかの牛や豚のお肉と交じらないように、器具や設備を全部きれいにしないといけないんですよ。それなら自分たちでやるしかないと、加工技術どころか肉の切り方も知らないうちから、精肉加工場を建設しました。もちろん習いに行きながら試行錯誤しましたが、最初は食肉処理場から戻ってきたそのままの肉の形でしか飲食店に渡せませんでした。少しずつブロックにしたり、骨を外したり、スライスにしたりできるようになって、昨年(2025年)からようやく個人向けのネット販売も始められるようになりました。

飼育、加工、販売、全て一手に担っているというと聞こえはいいんですけど、本当に大変です(笑)

─ イタリアンやフレンチのお店で取り扱ってもらってると伺いましたが?

熊本のホテルや温泉旅館、東京や京都の有名なレストランでも扱っていただいています。きっかけはマスタードでつながっていたシェフの皆さんでした。マスタードは一般的なものの5倍ほどの価格なんですが、それでも使ってくださっていて。シェフの方々は、食に対して新しい取り組みに興味を持ってくださるというか、アンテナが立つんだと思いますが、「阿蘇で羊をやっているところがあるらしい」と、シェフ同士の口コミで少しずつ広がっていきました。

昨年からは、熊本県の「食のみやこ推進局」という部署ができて、県の食材を盛り上げようという動きの中で紹介いただく機会も増えました。ただ、こうして注目をいただけるようになったのはここ最近のことで、本当に一件一件、地道に信頼を積み重ねるところから始めました。昔から牛の畜産をされている方々からすれば、新しい家畜が入ってくることへの不安があって当然です。病気のリスクなど、心配してくださる声にも耳を傾けながら、少しずつ理解を広げてきました。

販路を広げる中で見つけた、気軽に相談できる関係

─ Big Advanceの活用について教えてください。

当社の場合、Big Advanceは主に金融機関とのチャットのやりとりで活用しています。何かあったときにすぐ相談できる関係ができているのは、すごく助かっています。

「くまもと県産酒検定」という熊本県の酒文化を学び、その価値や魅力を発信する取り組みがありまして、金融機関も関わっているんです。それで、今回、会場でPRさせてもらう機会をいただき、羊肉とお酒の相性を紹介しました。機会があれば私たちのことを気にかけて声をかけてくださるので、チャットで気軽に連絡を取れることは本当にありがたいなと思っています。

Uターンで農業に転身。後押しになった、ある言葉

─ 佐藤さんは今のお仕事をどのように始められたのでしょう?

背中を押してくれる出会いがあったんです。東日本大震災があった頃に前職を辞めて、地域に目が向くような社会の風潮もあって、私も地元に帰ろうと思っていた時期です。祖母が農業をしていたこともあり、帰るなら阿蘇で農業をしたいと。ただ、当時は女性が農業をするということがイメージできなかったため、山形ガールズ農場という、女性だけで農業生産法人をやっている団体に一週間ほどインターンに行ったんです。

そこの代表の方に「自分の場所があるなら、早く戻って少しでも早く始めた方がいい」と言われたことが、今も響いています。何の裏付けもない言葉でしたが、あの後押しがなかったら、もっと違う道を選んでいたかもしれません。ここに生まれ育ったからこそ、この土地に根を下ろして生きていく。そう思えるようになったのは、あの出会いのおかげだと思っています。

草原を価値に変えるために。世界に学びに行く理由

─ ところで、ナフィールドという国際的な奨学金制度に応募された理由を教えてください。選ばれた農業者が2年間かけて世界各国を回り、先進的な農業を学ぶということですが。

「羊肉をきちんと知ってもらえれば需要がある」という手応えは出てきていました。ただ、放牧を続けていく上での課題もたくさんあります。例えば、今8ヘクタールの放牧地があり、それを囲う柵は距離にして5キロ近くになります。その柵を作るのに、牛の放牧には補助金があるのに羊は対象外です。丘陵地で間伐材を運び、手作業で柵を作る。資金がないなかで、こういったところからすべて手探りでやってきました。

一方でこの草原は、国が進めている自然共生サイト、いわゆる生物多様性を守る「30by30」の取り組みにも該当するような場所なんです。九州がかつて中国大陸と陸続きだったことを物語る植物や、阿蘇ならではの植物もあります。こうした独特の草原の環境は、野焼きや放牧、採草など、人の営みによって長く守られてきました。だからこそ、その草原を維持していくためには、毎年多くの人の手が必要になります。

─ 農業と環境を守ることは近いようで真逆といいますか……。利益を追求すると環境は守れませんよね?

両立することは、とても難しいですよね。環境活動と経済活動は相反してますから。海外では、環境に配慮した農業に対して行政機関が農家に直接支払いをする制度があると聞いたんです。阿蘇の農業は、草原を使うことが前提になっています。使うだけでは終わらず、草原を使うことをちゃんと価値に変えていく方法を、世界に探しに行きたいと思ったんです。

日本のような中山間地で放牧を広める研究はたくさんあるんですが、市場がないから普及していません。すでに1ヶ月半ほど海外を回ってきたのですが、いま特に参考にしているのはヨーロッパですね。イギリスやアイルランドでは、放牧そのもの、景観を残していくことが良いことだという考え方がすでに根付いています。環境に配慮した農業を行政がどう認定し、支援しているのか。農家が消費者にどう伝えているのか。そうしたことを持ち帰って、いずれはこちらでもアグリツーリズムや食のイベント、生産地を知ってもらうツアーのようなことができたらと思っています。

毛や皮も。羊を、丸ごと事業にする

─ 今後、力を入れていきたいことを教えてください。

実は、羊の毛や皮は今もほとんど活用できていません。皮は、処理の過程で捨てられていたのですが、知り合いの農家さんが独自になめし技術を研究してくれて、活用できるようになりました。まだ商品と呼べるほどではありませんが、今後はきちんとした製品にしていきたいと思っています。

 毛は、難燃性の性質があることに注目しています。草原を守るために毎年野焼きをしていますが、毎年のように火傷の事故が起きています。だから、羊の毛でかっこいいマントを作って、それを野焼きに携わる人たちのユニフォームのようにできないかと考えています。草原の草を食べて育った羊の毛が、また草原を守る人の命を守る。そんな循環を、いつか実現したいですね。ゆくゆくは、飛行機のファーストクラスのブランケットのような形にも広げられたらと話をしているところです。

阿蘇に来る観光客の方は、言葉にしていなくても、草原の景色を見に来てくださっているはずなんです。でも、それにお金を払う瞬間はどこにもない。だからこそ、観光で訪れた方が口にしたり、買って帰ったりできるもので、「草原に貢献している」と感じてもらえるものを、これからも作っていきたいと思っています。

─ 最後にメッセージなどあれば。

「土用丑の日」が有名ですけど、実は「土用未(ひつじ)の日」というのもあるんです。しかも来年は未年ですから。何かそういうムーブに乗っかりたいです(笑)。

<会社情報>

阿蘇さとう農園
所在地 熊本県阿蘇市西町725
URL

https://www.aso-satofarm.com/

※情報と肩書は取材当時のもの
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